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ラグジュアリーブランドの魅力|KENZO高田賢三の見た色・旅・自然(ケンゾー)

KENZO

2020年10月頭、KENZO(ケンゾー)の生みの親で日本を代表するファッションデザイナー高田賢三氏の訃報には、世界中のファッション業界から悲しみの声が上がりました。1970年にパリでデビューして以来、パリコレを代表する人気デザイナーとして活躍してきた高田さんは、パリに根付き、パリに最も愛された日本人デザイナーだったと言えるでしょう。まだファッション業界で活躍する日本人が少ない時代にいち早く世界に目を向け、礎を築いたデザイナー、そんな高田賢三についてそして彼のアイデンティティを表すKENZOについてご紹介します。

日本人がパリで立ち上げたブランド、KENZO(ケンゾー)の軌跡

時代の波に乗ったKENZO(ケンゾー)

1970年に立ち上げられた高田賢三氏のKENZO(ケンゾー)のショップ名は、自ら日本人を差別的に呼んだジャングル・ジャップと名乗り、パリの小さなブティックとしてスタートしました。当時お金の無かった高田さんは、自ら店内の装飾を3ヶ月かけて描き、小さなファッションショーを開きます。そこでファッション誌『ELLE』の編集長の目にとまり、同年にファッション誌『ELLE』の表紙をKENZOが飾ることになり、日本の着物の生地やスタイルを取り入れた当時のパリのイメージとは異なるカジュアルなコレクションが、パリモード界に衝撃を与えました。KENZOのファッションは瞬く間に注目を集め人気を呼び、ニューヨーク、東京でもコレクションを開催します。1983年には、メンズウェアのラインを登場させ、1986年には「ケンゾー・ジーンズ」や「ケンゾー・ジャングル」などを発表。1987年には「ケンゾー パルファム」を設立しました。

経営難からの再生を果たしたKENZO(ケンゾー)

1980年代の終わり頃からKENZO(ケンゾー)は経営難に陥り、1993年にはLVMH傘下ブランドに入リます。高田さんは1999年に引退し、自身の名を冠した「高田賢三」という新会社を設立し、2002年にブランド「YUME」を発表しました。2004年よりアントニオ・マラスがレディースのアーティスティック・ディレクターに就任。LVMHグループが買い取ったKENZOブランドは、2011年から大ヒットを連発します。立役者になったのは、デザイナー職を受け継いだHumberto Leon(ウンベルト・リオン)とCarol Lim(キャロル・リム)。セレクトショップ「オープニングセレモニー」の創業者コンビは、斬新なセンスでブランドを再生しました。それが可能だったのは、高田さんが残した膨大なアーカイブ(過去のコレクション)があったからだと言われています。KENZOは国をまたいだブランド再生の代表例となりました。

(参照: VOGUE, KENZO, https://www.vogue.co.jp/tag/kenzo)

ケンゾー

夢を追い続けたファッションデザイナー、高田賢三

外国に憧れた学生時代|KENZO(ケンゾー)

1970年代、パリのファッションシーンを牽引した KENZO の創始者・高田賢三。1939年2月27日、兵庫の姫路に生まれた高田さんは、姉たちの習う洋裁やファッション雑誌に影響を受け服飾に興味を抱きます。そして学生時代から外国に興味があった同氏は、高校を卒業した後、神戸市外国語大学に進学します。ただ、どうしてもファッションへの思いを忘れられなかった高田さんは大学を中退し、文化服装学院に入学します。そこから高田賢三のファッションの歴史がスタートしました。(同期には、コシノジュンコや金子功、松田光弘など大成したデザイナーが多く在籍し、高田さんも含め「花の9期生」と呼ばれました。)高田賢三は、文化服装学院時代は、優秀な生徒ではなかったと、自分のことを振り返ります。しかし、高田賢三は、若きデザイナーの登竜門として知られる、装苑賞を受賞します。

憧れのパリを目指した先に|KENZO(ケンゾー)

文化服装学院卒業後は、三愛に就職するものの、どうしてもパリに行く夢が諦めきれずに、3年ほど務めた三愛に、半年間の休暇を申請して、渡仏します。パリに行く際に、文化服装学院の恩師の言葉により、船でフランスへ渡る事を決意します。1ヶ月の航海の末、1965年パリに到着します。初めての海外旅行で、しかも1ヶ月間の船旅。フランスに辿り着くまでに様々な異文化に触れた若き高田賢三は、この船旅での経験が、多様性を重視する、ケンゾーのデザインにも大きく影響を与えたと後に語っています。パリに着いた高田賢三は、自身が書いたデザイン画を販売して生計を立てます。自身の絵が売れたときの感動は今でも覚えているとインタビューでも語っています。デザインが既製服メーカーの目に留まり、契約する事になり、旅行で訪れたはずのパリで、高田賢三はキャリアをスタートさせます。パリに到着して約4年後の1969年に、自身の服を販売するショップである”ジャングル・ジャップ”をオープンさせます。

パリでの挑戦|KENZO(ケンゾー)

高田賢三は、自身のショップ、ジャングル・ジャップで、プレタポルテによる自身のブランドを展開します。パリでは天才デザイナー、イヴ・サンローランが、プレタポルテラインに力を入れ始めた頃、女性のパンツルックも当たり前ではなかった時代です。高田賢三はこれからのモード界を牽引するのは、オートクチュールではなく、プレタポルテだと確信し、プレタポルテのみで勝負します。高田賢三自身が、モデルとなり、KENZOのワードローブを着てパリの街を闊歩しました。KENZOのワードローブはパリのファッショニスタを刺激しました。日本という国の存在さえ理解していないパリジェンヌが、ジャングル・ジャップに殺到します。パリでブランドを立ち上げる事に光を見出した高田賢三は、自身のショップ、ジャングル・ジャップで、プレタポルテコレクションを開催します。プレタポルテコレクションの為に、高田賢三は、日本に戻り、服作りの資金と生地の調達に走り回ります。着物の切れ端や、ヴィンテージの帯を解体して仕上げた、ハンドメイドによる、KENZOのプレタポルテコレクションは、パリのファッショニスタに衝撃を与えました。今まで見た事のないアヴァンギャルドで艶やかな色使いと、平面的でゆとりのあるシルエットが、ファッションジャーナリストやファッションエディターを虜にしました。ファーストコレクション以降、KENZOのワードローブは、雑誌”ELLE”のカバーを飾り、KENZOは新進モードブランドとして、パリのファッショニスタの間で絶大な支持を得ます。

(参照: HOLISTIC STYLE BOOK, 日本が誇るラグジュアリーブランドの元祖! ケンゾー ( KENZO ) の揺ぎ無きモードスタイル, https://h-stylebook.com/日本が誇るラグジュアリーブランドの元祖!-ケン/)

アパレル転職

高田賢三のインスピレーション

色|’色彩の魔術師’と呼ばれたファッションデザイナー、高田賢三

時代の寵児となった高田賢三は、鮮やかな色彩と、アイコニックパターンである花柄を多用したコレクションを発表し、”色彩の魔術師”と呼ばれました。対極にあるものが見せるコントラストがインスピレーションの源であるケンゾーは、様々なビビットな色とともに、異なった素材、文化を融合し、まったく違った世界観をコレクションで表現しました。1970年代から80年代の原色や、ビビットカラーがパリのプレタポルテコレクションのトレンドとなった要因は、ケンゾーの影響であることは間違いありません。

旅|旅をし続けたファッションデザイナー、高田賢三

高田さんの作る服は、旅の記憶からのインスピレーションが大きいと言われています。幼少期にインスピレーションを得た映画や舞台の世界、船旅で訪れた世界各地の情景など、それが華やかな色彩、大胆な柄の組み合わせなど想像力豊かにコレクションに落とし込まれ、人々を魅了させたのです。また、アジアや中南米、アフリカなどの民族衣装を源流とするエスニック要素を取り入れたファッションは今では当たり前の存在ですが、モードの世界へエキゾチックテイストを本格的に取り入れたパイオニアの一人が高田さんです。旅を通して触れた多様なフォークロア文化に目を向け、大胆な原色使いや、ゆったりとしたシルエットを、コレクションに写し込みました。

自然|’木綿の詩人’と称されたファッションデザイナー、高田賢三

高田さんは、既存の概念に囚われない自由な人物でした。それは、幼少期の少女趣味に疑問をもたないように、ジェンダーや人種などそこに存在する既存のボーダーをいとも簡単に撃ち壊すことからも垣間見えます。その一つが、素材選びでした。夏用の素材とされていた天然素材である木綿を、冬でも温もりを感じられるように表現したり、体をきつく締め付けラインを強調する服が流行したりしていた時代に、木綿の持つ天然の素材感を大切にし、自然と調和するようなゆったりしたシルエットの着やすさを重視した服作りを追究したことから、’木綿の詩人’と称されていました。また高田さんは、コレクションには必ず大ぶりの花のモチーフを使用していました。そのことからKENZOと言えば、ドラマチックで色彩鮮やかな花柄といわれるほどに、花柄はKENZOのアイコン的な存在となりました。特に高田さんが最も好んだ花が芍薬(しゃくやく)でした。芍薬は高田さんが初めて自身のクリエーションを形にした時に選んだ花で、東洋と西洋の自然のどちらの魅力も持ち合わせている花だと芍薬についてインタビューで語っています。

(参照: 20TH CENTURY DESIGNERS, KENZO TAKADA, http://carmelasdesignerproject.weebly.com/kenzo-takada.html)

永遠の旅人、高田賢三

高田賢三とは、時空を漂う旅人のようにそのデザイナー人生を駆け抜けました。船旅で日本から異国の地パリを目指した彼は、それからの人生もファッションを通じて「航海」を続けているのです。旅のテーマは一貫して、’自分のクリエーションで全ての人を楽しませる事’、それが高田賢三の服作りなのです。

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